最初に押さえるポイント
人的資本開示は、離職率や女性管理職比率などの数値を並べる作業ではありません。2026年の制度では、企業戦略と関連付けた人材戦略、その人材戦略を踏まえた従業員給与等の決定方針、平均給与の前年比増減率などを、有価証券報告書上で説明することが求められています。
法務上の中心は、開示した人材戦略・給与方針・多様性指標と、実際の人事制度、賃金、評価、配置、採用、育児休業、管理職登用等が整合しているかを確認することです。労務上の問題が存在すること自体と、開示上の虚偽・不備があることは同じではないため、両者を分けて評価します。
2026年4月からは、女性活躍推進法上、常時雇用する労働者が101人以上の事業主について男女間賃金差異と女性管理職比率の情報公表義務が拡大しています。育児・介護休業法では、常時雇用する労働者が300人を超える事業主に男性の育児休業取得状況の公表義務があります。これらの数値と有価証券報告書の記載を同じ定義・基準日で管理することが重要です。
2026年度の金融庁有価証券報告書レビューでは、人的資本に関する開示が重点テーマとされています。制度への形式対応だけでなく、記載内容と人事制度・実績データの整合性を提出前に点検することが重要です。
1 人的資本開示は「人事のPR」ではなく、経営戦略と労務実態をつなぐ法定開示
人的資本開示では、「人を大切にしている」「多様な人材が活躍している」といった抽象的な方針だけでは十分ではありません。投資家にとって重要なのは、企業がどのような事業戦略を実現しようとしており、そのためにどのような人材を確保・育成・配置し、どの指標で進捗を確認しているかです。
2023年3月期から、有価証券報告書の「サステナビリティに関する考え方及び取組」において、人材育成方針や社内環境整備方針、その方針に関する指標・目標・実績等の開示が求められてきました。2026年2月の開示府令改正では、さらに連結ベースの企業戦略と関連付けた人材戦略、これを踏まえた従業員給与等の決定方針、提出会社の平均給与の前年比増減率等が追加されています。
したがって、人的資本開示はIR部門だけの文章作成ではなく、経営企画・人事・労務・法務・経理が同じ事実関係とデータを共有する必要がある領域です。
2 2026年改正で追加された人的資本開示を整理する
2026年2月20日に公布・施行された開示府令改正は、2026年3月31日以後に終了する事業年度に係る有価証券報告書等から人的資本開示の制度見直しを適用しています。従来の人的資本・多様性開示に加え、「従業員の状況等」の記載が拡充されました。
| 開示項目 | 2026年改正後のポイント | 実務上の確認 |
|---|---|---|
| 人材戦略 | 連結ベースの企業戦略と関連付けた人材戦略を開示 | 事業計画・中期経営計画と人材施策が論理的につながっているか |
| 給与等の決定方針 | 人材戦略を踏まえた従業員給与等の決定方針を開示 | 賃金制度、評価制度、昇給・賞与方針との整合を確認 |
| 平均給与の前年比増減率 | 提出会社の従業員の平均給与について前年比増減率を開示 | 対象従業員・算定期間・組織再編の影響を継続管理 |
| 持株会社の追加開示 | 一定の持株会社では最大人員会社の平均給与・前年比等も対象 | 対象となる国内連結子会社を毎年度確認 |
| 従業員向け株式制度 | 一定の従業員向けSO・株式所有制度を「従業員の状況等」に記載可能 | 制度目的と人材戦略のつながりを確認 |
人材戦略を連結ベースで説明する一方、給与等の決定方針や平均給与の開示には提出会社単体を基準とする項目もあります。したがって、「連結の話」と「提出会社単体の話」を同じ段落で混同しないことが重要です。
3 「人材戦略」は採用・研修の一覧ではなく、企業戦略から逆算する
2026年3月に改訂された人的資本可視化指針は、経営戦略と人材戦略が連動していることを前提に、必要な組織・人材像を定義し、人的資本投資を実践し、その進捗を指標・目標で示す考え方を強調しています。
たとえば海外売上の拡大を経営戦略として掲げる企業であれば、単に研修時間を開示するより、海外事業を担える人材の採用・配置・育成、言語・専門能力の確保、現地マネジメント人材の登用等をどのように進め、その進捗を何で測るかを説明する方が戦略とのつながりが明確です。
| 経営上の課題 | 人材戦略の例 | 指標候補の例 |
|---|---|---|
| デジタル事業の拡大 | 専門人材の採用、リスキリング、配置転換 | 専門人材数、研修修了率、配置人数 |
| 新規事業の創出 | 社内公募、越境配置、評価制度の見直し | 社内公募数、異動率、新規事業人材の定着率 |
| 海外展開 | グローバル人材育成、現地登用、後継者計画 | 海外経験者数、現地管理職比率、候補者充足率 |
| 生産性改善 | 職務整理、業務標準化、スキル向上 | 一人当たり付加価値、スキル認定率、改善施策実施率 |
すべての指標を開示する必要があるわけではありません。企業価値とのつながりが弱い指標を大量に並べると、人材戦略の重点がかえって不明確になります。
4 人材戦略と「給与等の決定方針」を実際の賃金制度へつなげる
2026年改正では、人材戦略を踏まえた従業員給与等の決定方針が新たな開示項目となりました。ここで重要なのは、「競争力ある報酬を提供する」といった抽象的な文章だけを作ることではありません。実際の等級、職務、評価、昇給、賞与、手当、株式報酬等の制度と説明が一致している必要があります。
たとえば「成果と専門性を重視した報酬制度」と開示していても、実際には勤続年数中心で昇給が決まっている場合、直ちに違法とは限りませんが、開示の正確性・説得力の観点から見直しが必要です。また、制度上の方針だけでなく、実際の運用において特定の部署や属性に不合理な差が生じていないかも確認します。
| 開示上の表現 | 照合したい社内制度・資料 | 注意点 |
|---|---|---|
| 「専門性を処遇へ反映」 | 等級制度、職務記述、評価基準、給与テーブル | 制度上反映される仕組みが実在するか |
| 「成果に連動した報酬」 | 賞与算定、評価分布、KPI | 例外運用が常態化していないか |
| 「市場競争力ある給与」 | ベンチマーク、採用給与、既存社員給与 | 採用時だけ高く既存社員との歪みがないか |
| 「公平な評価」 | 評価基準、評価者訓練、異議申立制度 | 属性別の偏りや説明困難な差がないか |
5 平均給与の前年比は「数字を出す」より、定義と変動要因を管理する
2026年改正では、提出会社の従業員の平均給与について、対前年比増減率の開示が追加されました。単年度の数値自体より、前年と同じ定義・範囲で比較できることが重要です。
M&A、会社分割、持株会社化、大量採用、定年再雇用制度変更、パート・有期雇用比率の変化等があると、賃金水準そのものが変わっていなくても平均値は大きく動き得ます。平均給与の増減を「賃上げ率」と同義に扱わないよう注意が必要です。
| 変動要因 | 平均給与への影響例 | 確認しておきたい資料 |
|---|---|---|
| 大量採用 | 若手比率上昇で平均が低下する場合がある | 年齢構成、採用人数、給与レンジ |
| 組織再編 | 高給与部門の移管等で平均が変動 | 再編対象、従業員移籍、基準日 |
| 賞与変動 | 業績連動賞与で前年比が大きく動く | 賞与制度、支給実績、業績 |
| 雇用構成変化 | 正規・有期・短時間の構成変化で平均が変動 | 雇用形態別人数、労働時間 |
| 給与改定 | ベースアップ等の実際の賃上げ効果 | 給与テーブル、改定率、対象者 |
6 女性管理職比率・男女間賃金差異は2026年4月改正も反映する
人的資本開示では、有価証券報告書だけを見れば足りません。女性活躍推進法等で公表する指標が、有価証券報告書の「従業員の状況等」にも接続するためです。
2026年4月1日施行の改正女性活躍推進法により、常時雇用する労働者が101人以上の事業主では、男女間賃金差異と女性管理職比率が必須の情報公表項目となりました。301人以上ではこれらに加えて所定の区分から複数項目、101人から300人ではさらに1項目以上を公表します。
3月決算会社の場合、この改正による情報公表義務の拡大は、2027年3月期の有価証券報告書から関連する開示範囲を広げる方向に働きます。連結子会社についても、各社が女性活躍推進法に基づき公表する指標を把握する必要があります。
| 企業規模 | 2026年4月以後の主な公表義務 | 有報作成時の確認 |
|---|---|---|
| 301人以上 | 男女間賃金差異、女性管理職比率に加え、所定区分から2項目以上 | 提出会社・対象連結子会社の公表値と定義を照合 |
| 101~300人 | 男女間賃金差異、女性管理職比率に加え、所定項目から1項目以上 | 新たに義務対象となった子会社を漏らさない |
| 100人以下 | 情報公表は原則努力義務 | 任意開示する場合は定義・算定範囲を明示 |
7 男女間賃金差異は「差がある=違法」とも「理由を書けば問題ない」ともいえない
男女間賃金差異は、全労働者、正規雇用労働者、パート・有期労働者等の区分で把握されます。この数値は、職種構成、管理職比率、勤続年数、雇用形態、所定労働時間等の影響を受けるため、差異が存在するだけで直ちに違法な賃金差別を意味するものではありません。
一方、数値の背景を説明できれば法務上の問題がなくなるわけでもありません。性別を理由とする不合理な処遇差、昇進・配置・評価の運用、コース別雇用管理等に問題があれば、開示とは別に労務法上の検討が必要です。
実務では「開示」と「原因分析」を分ける
開示担当者は、法令上の算出方法どおりに数値を作成し、前年差・雇用区分・対象期間を確認します。
人事・法務は、その数値を生じさせている構造を分析し、管理職登用、配置、評価、雇用形態、育児との両立等のどこに課題があるかを別途確認します。
数値を良く見せるために算定範囲や雇用区分を恣意的に変更することは避け、変更がある場合は理由と影響を記録します。
8 女性管理職比率は「管理職」の定義と人事データをそろえる
女性管理職比率を管理する際には、社内で「管理職」と呼んでいる者と、法令上の公表指標で用いる管理職の範囲が一致しているかを確認します。肩書だけでなく、厚生労働省の定義・算定方法に従って数値を作成する必要があります。
また、目標値を設定する場合は、現状の人材パイプライン、候補者層、採用、昇進基準、育成施策とつなげます。単に数値目標だけを掲げると、実現手段が説明できず、実態と開示の乖離が大きくなります。
| 確認項目 | 実務上のポイント | 残したい資料 |
|---|---|---|
| 管理職定義 | 法令上の算定対象と社内職位を対応付ける | 職位一覧、職務権限、算定メモ |
| 基準日 | 年度ごとの比較で基準日をそろえる | 人事マスタ、組織図 |
| 候補者層 | 昇進候補の男女構成を把握する | タレントレビュー、昇進候補者一覧 |
| 昇進運用 | 評価・推薦・選考過程に偏りがないか確認 | 評価基準、昇進審査記録 |
9 男性育児休業取得率は別法令の公表義務と有報をつなぐ
育児・介護休業法では、2025年4月から、常時雇用する労働者が300人を超える事業主について、男性の育児休業等の取得状況を年1回公表する義務が拡大されています。公表する割合には、「育児休業等の取得割合」と「育児休業等と育児目的休暇の取得割合」があり、どちらを用いたかを明確にします。
有価証券報告書で男性育児休業取得率を記載する場合、元となる法令上の公表値と有報の数字を別々に管理しないことが重要です。取得率だけでなく、算定分母、対象期間、出向者等の取扱いが一致しているかを確認します。
10 人的資本KPIは、定義・対象範囲・基準日を「データ辞書」にする
離職率、エンゲージメント、研修時間、管理職比率、採用数などは、同じ名称でも会社ごとに定義が異なります。人的資本KPIを開示する場合は、指標名だけではなく、計算式、対象者、基準日、除外基準、データソース、責任者を固定することが重要です。
| KPI | 定義で決めたい事項 | ありがちな不整合 |
|---|---|---|
| 離職率 | 自己都合のみか、定年・契約満了を含むか | IRと人事で分母・分子が異なる |
| 研修時間 | 受講時間か勤務扱い時間か、対象者の範囲 | eラーニングと集合研修の扱いが異なる |
| エンゲージメント | 調査対象、回答率、スコア算出方法 | 質問変更後も単純比較する |
| 管理職比率 | 管理職定義、基準日、出向者の扱い | 肩書ベースと法令定義が混在する |
| 採用・定着 | 新卒・中途、対象期間、在籍判定日 | 採用数と入社数を混同する |
データ辞書があると、担当者交代、システム変更、M&A後の統合時にも同じ指標を再現しやすくなります。
11 「方針」と「実態」がずれる典型場面を早めに把握する
人的資本開示では、法令違反があるかだけでなく、会社が自ら公表した方針や目標と実際の運用が大きく食い違っていないかが重要です。ただし、方針どおりに進まなかったことだけで直ちに虚偽記載になるわけではありません。前提が変化した場合に、進捗・原因・見直しを適切に説明できる状態にします。
| 開示・方針 | 実態とのずれの例 | 確認する対応 |
|---|---|---|
| 「柔軟な働き方を推進」 | 利用可能部署が限定され、制度利用が実質困難 | 対象条件、利用実績、阻害要因を把握 |
| 「公正な評価制度」 | 評価基準が部署ごとに異なり説明困難 | 評価ルールと運用差を点検 |
| 「多様性を重視」 | 採用は多様でも昇進・配置が偏る | 昇進率、配置、退職率を属性別に確認 |
| 「人材育成へ投資」 | 研修費は増加したが事業戦略との関係が弱い | 対象スキル、配置、成果指標を接続 |
| 「従業員エンゲージメント向上」 | 低下要因を分析せず目標だけ据置き | 原因分析、施策、目標見直しを記録 |
12 労務問題が発生したときは「事件対応」と「開示対応」を分けつつ連携する
長時間労働、ハラスメント、差別的取扱い、重大な労災、労基署の是正等が発生した場合、まず個別の労務法上の対応を行う必要があります。その上で、既存の人的資本開示と矛盾しないか、重要性のある事実として開示・訂正・説明が必要かを別途検討します。
たとえば有価証券報告書で「重大な労務課題はない」といった断定的説明をしている時に、複数拠点で同種の重大問題が判明した場合には、単なる個別紛争として処理するだけでは足りない可能性があります。一方、一件の個別紛争が生じたからといって直ちに有価証券報告書の訂正が必要になるわけでもありません。重要性と既存開示の内容を具体的に評価します。
| 発生事象 | 労務対応 | 開示上の確認 |
|---|---|---|
| 長時間労働・労災 | 安全配慮、労働時間管理、再発防止 | 人的資本リスク・KPI・方針との整合 |
| ハラスメント | 調査、被害者保護、是正、再発防止 | 職場環境整備方針との整合 |
| 賃金・評価問題 | 制度・運用の適法性、差異の原因分析 | 給与方針・男女間賃金差異説明との整合 |
| 行政調査・是正 | 期限管理、是正内容、再発防止 | 重要性・既存開示・外部説明の要否 |
13 人的資本データは個人情報・センシティブな人事情報でもある
人的資本開示のために、性別、年齢、給与、評価、休業、健康・安全、離職等のデータを集約する場面があります。外部開示は通常集計値ですが、作成過程では個人単位の情報を扱うため、閲覧権限、利用目的、保存期間、委託先管理等も整理します。
とくに少人数部署や特殊な職種について細分化した数値を任意開示すると、個人が推測される可能性があります。投資家に有用な粒度と従業員プライバシーの両方を考慮し、必要以上の細分化を避けます。
14 M&A・組織再編・持株会社化では人的資本データの境界が変わる
M&Aや会社分割、持株会社化では、従業員の所属、平均給与の算定範囲、最大人員会社、女性管理職比率等の対象会社が変わります。前年との比較が単純にはできなくなるため、組織再編の法務・会計だけでなく、人的資本開示への影響もクロージング前後で確認します。
買収DDでは、従業員数や労務紛争の有無だけでなく、人的資本KPIの定義、HRシステム、給与データ、過年度の公表値、行政提出・公表との整合まで確認すると、買収後の開示統合がしやすくなります。
| 場面 | 確認事項 | 実務対応 |
|---|---|---|
| 買収 | 過年度KPI、給与・管理職データ、データ品質 | DDで定義・元資料を確認しPMI計画へ反映 |
| 会社分割 | 転籍範囲、比較情報、基準日 | 分割前後の対象者を識別できる状態にする |
| 持株会社化 | 最大人員会社、提出会社単体の従業員構成 | 2026年改正の追加開示対象を再判定 |
| 海外再編 | 各国の人事データ定義、個人情報移転 | 連結開示と現地法上の制約を調整 |
15 人的資本開示を年間プロセスとして回す
人的資本開示を有価証券報告書作成時の年1回作業にすると、期末時点で初めてデータ不整合が発覚しやすくなります。人材戦略のKPIは経営管理にも使う情報なので、少なくとも半期・四半期で進捗とデータ品質を確認することが実務的です。
| 時期 | 主な作業 | 成果物・記録 |
|---|---|---|
| 年度初め | 人材戦略、目標、指標、制度改正を確認 | KPI一覧、定義、年間計画 |
| 四半期・半期 | 採用・離職・給与・多様性等の進捗確認 | KPIモニタリング、異常値メモ |
| 期末前 | 法定指標、平均給与、目標進捗を確定準備 | 算定ファイル、根拠資料、論点一覧 |
| 有報作成期 | 人事・IR・法務・経理で横断レビュー | 開示ドラフト、照合表、承認記録 |
| 提出後 | 訂正・制度変更・改善点を反映 | 改善計画、次年度データ辞書 |
16 2026年度は人的資本開示が金融庁レビューの重点テーマ
金融庁は、2026年3月31日以後に終了する事業年度に係る有価証券報告書のレビューにおいて、2026年2月改正後の人的資本開示を法令改正等関係審査の対象とし、さらに「人的資本に関する開示」を重点テーマとして審査すると公表しています。対象は「従業員の状況等」だけでなく、「サステナビリティに関する考え方及び取組」における人的資本の記載にも及びます。
したがって、提出前レビューでは「必要な欄が埋まっているか」だけでなく、人材戦略、給与等の決定方針、平均給与、多様性指標、任意KPIの間で説明が矛盾していないかを横断的に確認することが重要です。過去の金融庁レビューでも、人的資本に関する方針・指標・目標・実績の記載不足や、女性管理職比率を女性活躍推進法上の定義に従って算定していない事例が課題として示されています。
| 提出前の確認軸 | 照合したい資料 | 典型的な不整合 |
|---|---|---|
| 人材戦略 | 中期経営計画、人員計画、育成・配置計画 | 成長分野を掲げる一方、必要人材・施策・KPIがつながっていない |
| 給与等の決定方針 | 賃金規程、評価制度、賞与・昇給資料 | 開示上は成果・専門性重視だが、実際の制度運用が異なる |
| 平均給与・多様性指標 | 給与台帳、人事マスタ、法定公表データ | 有報と他の法定公表で対象者・基準日・数値が一致しない |
| 任意KPI・目標 | KPI定義書、実績集計、取締役会資料 | 目標は更新されたが、計算式や実施施策が前年のまま |
17 同じ「従業員」「管理職」でも制度ごとに母集団・定義が違う
人的資本開示で特に起こりやすいのが、「従業員数」「管理職」「育児休業取得率」など、似た名称のデータを同じ母集団・定義で計算できると思い込むことです。実際には、有価証券報告書、女性活躍推進法、育児・介護休業法、会社独自の人的資本KPIで、それぞれ対象者や算定方法が異なる場合があります。
たとえば、女性活躍推進法の企業規模判定では「常時雇用する労働者」が基準となります。また、同法上の女性管理職比率でいう「管理職」は、課長級及び課長級より上位の役職(役員を除く)を意味し、社内で管理職手当を支給している者や、労働基準法上の「管理監督者」と当然に同一ではありません。社内職位と法令定義を対応させる表を作っておくと、年度ごとの算定ぶれを防ぎやすくなります。
| データ・制度 | 対象範囲を決める際の注意 | 実務上の管理 |
|---|---|---|
| 有報の平均給与等 | 提出会社単体・持株会社の追加開示等、開示府令上の対象を確認 | 前年と同じ対象者・期間か、再編の影響がないかを記録 |
| 女性活躍推進法 | 企業規模判定と各指標の算定ルールを区別 | 常時雇用労働者数、管理職定義、雇用区分を法定ルールに合わせる |
| 男性育児休業取得率 | 公表義務の企業規模と、取得率の算定対象・方法を確認 | 厚労省公表値と有報の値を同じ根拠資料から作る |
| 任意の人的資本KPI | 会社が目的に応じて定義できるが、法定指標と同じ名称なら誤解に注意 | 計算式・除外基準・基準日・データソースを明示 |
18 有価証券報告書の内外で人的資本情報を横断照合する
人的資本情報は、有価証券報告書の一か所だけに存在するわけではありません。「サステナビリティに関する考え方及び取組」では人材育成方針・社内環境整備方針や指標・目標を説明し、「従業員の状況等」では給与・従業員・多様性に関する数値を記載します。重要な労務リスクがある場合には「事業等のリスク」等との関係も確認が必要です。
さらに、女性活躍推進法上の公表サイト、男性育児休業取得率の公表、統合報告書、採用サイト、人的資本レポート等にも同じ又は近い情報が掲載されます。書類ごとに目的や対象範囲が異なるため、文章を完全に同一にする必要はありませんが、同じ事実・数値について理由なく異なる説明をしないことが重要です。
| 公表先・記載箇所 | 主な内容 | 横断確認のポイント |
|---|---|---|
| 有報「サステナビリティ」 | 人材戦略、方針、指標・目標、実績 | 施策・KPIが企業戦略とつながり、「従業員の状況」の数値と矛盾しないか |
| 有報「従業員の状況等」 | 給与、従業員、多様性指標等 | 法定定義・対象会社・基準日が正しいか |
| 女性活躍・育児休業等の法定公表 | 男女間賃金差異、女性管理職、男性育休等 | 有報と同じ公表値を使う場合、算定根拠・時点が一致しているか |
| 統合報告・採用サイト等 | 人的資本方針、目標、実績、採用メッセージ | 任意媒体だけ都合のよい期間・母集団を使っていないか |
19 誤り・前提変更を見つけた後の訂正ルートを決めておく
人的資本データは、後から退職区分の修正、役職判定の見直し、給与データの差替え、子会社からの訂正等が生じることがあります。重要なのは、数値を上書きして終わりにせず、「何が変わったのか」「単なる見積り・集計更新か、過年度の誤りか」「どの公表媒体に影響するか」を切り分けることです。
提出済みの有価証券報告書に重要な誤りがある場合は、訂正報告書の要否を含めて金融商品取引法上の対応を検討します。女性活躍推進法等の公表サイトを更新しても、提出済みの有価証券報告書が自動的に修正されるわけではありません。逆に、有報上の数値修正だけを行い、法定公表サイトや統合報告書が旧数値のまま残ることも避ける必要があります。
| 発見した事象 | 最初に確認すること | 対応の方向 |
|---|---|---|
| 集計ミス・転記ミス | どの年度・媒体・指標に波及するか | 重要性を評価し、有報・法定公表・任意媒体の訂正要否を整理 |
| 法令上の定義の誤り | 管理職・雇用区分・対象者等の定義を誤っていないか | 算定し直し、過年度比較・目標進捗への影響も確認 |
| 組織再編・制度変更 | 前年差が実態変化か母集団変化か | 比較可能性を説明し、必要に応じ定義・基準日を更新 |
| 目標の前提崩れ | 目標値だけでなく施策・事業計画も変わったか | 見直し時期・理由・承認を記録し、外部公表を横断更新 |
20 弊所の実務上の視点
人的資本開示のレビューでは、まず「この文章を裏付ける人事制度・データは何か」を確認することが有効です。人材戦略、給与方針、評価、管理職登用、育児休業等が、それぞれ別の資料・部署で管理されていると、最終的な有価証券報告書だけでは矛盾を把握できません。
特に平均給与や男女間賃金差異のような数値は、算定自体は人事・経理が担っても、法務は対象範囲、基準日、説明文との整合、制度変更・組織再編時の扱いを確認できます。逆に、法務が数値計算を独自に作り直すのではなく、データオーナーを明確にしたうえでレビューする方が再現性があります。
また、人的資本目標を設定する際には、達成できなかった場合を過度に恐れて曖昧な目標にするのではなく、合理的な前提、実行施策、責任部署、レビュー時期、見直し条件を決めることが重要です。未達時にも、その理由と対応を説明できる体制の方が、数字だけを掲げるより開示の信頼性を高めます。
21 人的資本開示の実務フロー
| 段階 | 行うこと | 主な成果物 |
|---|---|---|
| 1 適用確認 | 開示府令、女性活躍推進法、育児・介護休業法上の対象を確認 | 義務・指標一覧 |
| 2 人材戦略整理 | 企業戦略から必要人材・重点施策を整理 | 人材戦略、施策マップ |
| 3 KPI設計 | 重要な進捗指標と目標を選定 | KPI定義書、目標設定資料 |
| 4 データ統制 | 対象者、計算式、基準日、元データを固定 | データ辞書、算定ファイル |
| 5 実態照合 | 給与・評価・配置・登用等の実態と開示を照合 | ギャップ一覧、是正方針 |
| 6 レビュー・承認 | 人事・IR・法務・経理・経営で確認 | レビュー履歴、承認記録 |
| 7 継続更新 | 制度改正、再編、目標進捗、訂正を管理 | 更新履歴、改善計画 |
22 よくある人的資本開示のミス
| ミス | 問題点 | 改善策 |
|---|---|---|
| 人材戦略が採用・研修の羅列 | 企業戦略とのつながりが分からない | 事業課題→必要人材→施策→KPIの順で整理 |
| 人事とIRでKPI定義が違う | 同じ指標なのに数値が一致しない | データ辞書と単一の根拠資料を持つ |
| 平均給与の増減=賃上げ率と説明 | 人員構成等の影響を無視 | 増減要因を分解して説明する |
| 男女間賃金差異を違法性の判定値として扱う | 統計指標と法的評価を混同 | 数値開示と労務上の原因分析を分ける |
| 目標だけ更新し制度は旧態依然 | 方針と運用が乖離 | 評価・給与・配置等の制度も点検 |
| 法定公表と有報を別々に作成 | 基準日・対象範囲・数値が食い違う | 同じデータソース・承認ルートで管理 |
| M&A後も前年定義をそのまま使用 | 比較可能性・対象範囲が崩れる | 再編時にKPI境界と比較情報を再設計 |
23 チェックリスト
- 企業戦略と人材戦略のつながりを説明できる
- 人材戦略を踏まえた給与等の決定方針が実際の賃金・評価制度と一致している
- 平均給与の前年比増減率について対象者・算定期間・変動要因を確認した
- 持株会社に該当する場合、最大人員会社等の追加開示対象を確認した
- 女性活躍推進法上の男女間賃金差異・女性管理職比率の対象会社を確認した
- 男性育児休業取得率について育児・介護休業法上の公表値と有報を照合した
- 離職率・研修・エンゲージメント等の任意KPIについて計算式・対象・基準日を固定した
- 連結・単体、国内・海外のデータ範囲を明確にした
- 人材戦略の目標について前提・責任部署・見直し条件を記録した
- 重大な労務問題が既存の人的資本開示へ与える影響を評価するルートがある
- 人的資本データへのアクセス権・個人情報管理を設定した
- M&A・組織再編時にKPI定義・比較情報・データ取得方法を見直す
- 有報、統合報告書、採用サイト、人的資本レポート等の数値・表現を照合した
- 金融庁の年度レビュー項目と人的資本可視化指針の最新版を確認した
- 2026年度の金融庁レビュー重点テーマを踏まえ、人的資本の記載欄を提出前に横断レビューした
- 「従業員」「管理職」「常時雇用する労働者」等について、制度ごとの母集団・定義を混同していない
- 女性活躍・育児休業等の法定公表と有報・統合報告・採用サイトの数値を照合した
- 人的資本データの誤りが判明した場合の訂正・エスカレーションルートを決めている
24 FAQ
Q. 人的資本開示はすべての会社に法的義務がありますか?
A. 有価証券報告書の提出会社に求められる開示と、女性活躍推進法・育児介護休業法の情報公表義務、任意の人的資本レポートは別です。会社の上場・提出義務、従業員規模等を分けて確認します。
Q. 離職率や研修時間は必ず有価証券報告書に記載する必要がありますか?
A. 一律の必須指標ではありません。人材戦略の進捗を説明するうえで重要な場合に、企業固有の指標として選定します。
Q. 男女間賃金差異が大きいと、直ちに法律違反ですか?
A. 直ちにそうとは限りません。職種、雇用形態、管理職比率等の影響を受けます。ただし、差異の背景に性別を理由とする不合理な処遇がないかは別途労務法上検討します。
Q. 女性管理職比率の目標を達成できなかったら虚偽記載になりますか?
A. 未達だけで直ちに虚偽記載になるとは限りません。目標設定時の合理性、進捗説明、前提変更後の見直し、実績値の正確性が重要です。
Q. 平均給与の前年比増減率は賃上げ率と同じですか?
A. 同じとは限りません。人員構成、賞与、採用・退職、組織再編等の影響を受けるため、必要に応じて変動要因を確認します。
Q. 連結子会社の女性管理職比率等も有報に必要ですか?
A. 女性活躍推進法等に基づき公表する連結子会社については、有価証券報告書でも関連指標の開示対象となり得ます。対象会社を年度ごとに確認します。
Q. 人的資本開示は人事部だけで作ればよいですか?
A. 人事が主要データを保有しますが、企業戦略との接続は経営企画、法令・表現は法務、財務との整合は経理、最終的な監督・承認は経営・取締役会が関与するため、横断体制が必要です。
Q. 労基署の是正勧告があれば必ず有報へ書く必要がありますか?
A. 一律ではありません。事象の重要性、既存の人的資本・リスク開示との関係、投資判断への影響等を具体的に評価します。
Q. 人的資本可視化指針に従わないと違法ですか?
A. 人的資本可視化指針は法令そのものではありません。ただし、経営戦略と人材戦略をつなぎ、有用な開示を設計する実務上の重要な参照資料です。
Q. 未上場企業にも人的資本データ整備は必要ですか?
A. 同じ有価証券報告書義務があるわけではありませんが、女性活躍推進法等の直接義務、親会社・取引先・金融機関・IPO準備からの要請が生じる場合があります。
Q. 女性活躍推進法の「管理職」は、労働基準法上の管理監督者と同じですか?
A. 同一ではありません。女性活躍推進法上の女性管理職比率では、課長級及び課長級より上位の役職(役員を除く)という定義に沿って算定します。社内の管理職区分や労基法上の管理監督者該当性とは分けて確認します。
Q. 人事システム上の従業員数を、すべての人的資本指標の分母に使ってよいですか?
A. 一律には使えません。開示府令、女性活躍推進法、育児・介護休業法、任意KPIごとに対象者・基準日・雇用区分等を確認し、指標ごとに母集団を固定します。
Q. 公表後に人的資本データの誤りが見つかった場合は、ウェブサイトだけ直せばよいですか?
A. それだけでは足りない場合があります。有価証券報告書、女性活躍推進法等の法定公表、統合報告書等への波及を確認し、誤りの重要性に応じて訂正報告書を含む必要な対応を検討します。
25 弁護士・社労士・会計士等へ早めに相談したい場面
- 2026年改正後の有価証券報告書で、人材戦略・給与等の決定方針を新たに作成する
- 平均給与の前年比が大きく変動し、その理由が組織再編・賞与・人員構成等で複雑である
- 男女間賃金差異や女性管理職比率の数値と、人事制度・労務実態との関係を分析したい
- 女性活躍推進法・育児介護休業法上の公表値と有価証券報告書の数値が一致しない
- 重大な労務問題・行政調査が発生し、人的資本開示への影響を検討する必要がある
- M&A・持株会社化・会社分割等で、人的資本KPIや開示対象会社が変わる
- 人材戦略の目標・KPIを新設し、法的リスクとデータ統制を同時に整理したい
人的資本開示には、金融商品取引法上の開示、人事制度、労働法、データ管理、会計・経営戦略が重なります。各専門家の役割を分けたうえで、同じデータと事実関係を共有することが重要です。
まとめ 人的資本開示は「人材戦略・制度・データ・実態」を一致させる
2026年の人的資本開示では、企業戦略と関連付けた人材戦略、給与等の決定方針、平均給与の前年比増減率など、より具体的な説明が求められるようになりました。同時に、女性活躍推進法の改正により、男女間賃金差異・女性管理職比率の公表義務も広がっています。
企業が行うべきことは、開示項目を増やすことではありません。経営戦略から必要な人材像と施策を整理し、その進捗を測る指標を選び、給与・評価・配置・登用等の実際の制度と照合し、同じ定義で数値を継続的に作れる状態にすることが中心です。
人的資本の開示と労務法務は密接に関係しますが、労務問題の存在と開示上の虚偽は同じではありません。個別の労務問題を適切に処理しつつ、それが公表済みの方針・KPI・リスク説明へ与える影響を別途評価することで、過大な開示と対応漏れの双方を避けることができます。
26 主要な一次資料
金融庁「企業内容等の開示に関する内閣府令及び特定有価証券の内容等の開示に関する内閣府令の一部を改正する内閣府令」等の公布及びパブリックコメントの結果について(2026年2月20日、3月19日更新)
金融庁「有価証券報告書レビュー及び大量保有報告書等のレビューについて(令和8年度)」(2026年3月27日)
金融庁「サステナビリティ情報の開示に関する特集ページ」及び人的資本・多様性に関する開示資料
内閣官房・金融庁・経済産業省「人的資本可視化指針(改訂版)」(2026年3月23日)及び別紙・付録
厚生労働省「女性活躍推進法特集ページ」及び2026年4月1日施行の改正法関係資料
厚生労働省「男女間賃金差異の解消に向けて」及び男女間賃金差異の算出・公表資料
厚生労働省「育児・介護休業法」及び男性の育児休業等取得状況の公表に関する資料
金融庁「有価証券報告書レビュー及び大量保有報告書等のレビューについて(令和8年度)」(2026年3月27日、4月28日更新)
金融庁 金融審議会「ディスクロージャーワーキング・グループ」(第5回)資料・議事録(2026年5月18日)
厚生労働省「女性活躍推進法における管理職の定義」等のQ&A・解釈資料(2026年改正対応版)
人的資本開示・労務法務に関するご相談
人的資本開示、人材戦略、給与・評価制度、多様性指標、女性活躍推進法・育児介護休業法に基づく公表、人事データと有価証券報告書の整合、M&A・組織再編時の人的資本データ整理などについてご相談ください。